鳩翁道話の放蕩息子の話を読んで・・・
「鳩翁道話」の中に、放蕩息子の話が出てきます。
ある夫婦が一人息子を溺愛して育てたところ、次第に横着になり、手に余る放蕩者になってしまう。親戚縁者から「勘当せよ」と何度も言われるも、どうにもできず26歳に。つのる悪行に親戚縁者はもう我慢がならんと「勘当せぬなら、親戚義絶だ」と申しつける。夫婦も、親戚義絶となれば先祖に申し訳が立たない、勘当致し方なし、と親族の寄り合いをすることに。
放蕩息子はというと、勘当の寄り合いがなされると聞きつけ、「寄り合いの途中で乗り込んでいき、騒いで退き代として金をせびりとろう」と思い立ち、寄り合いの様子を雨戸の隙間から覗いてみる。
さて、寄り合いが始まり、勘当の願書が回る・・・父親が意を決して印を押そうとしたその時、母親が「待って下され」。「息子のために家を失い、村を追われ、物乞いになったとしても本望。一生のお願いだから勘当はやめてくだされ」と泣いて懇願。それを聞いて父親も「我が子のために家をつぶすのは先祖に申し訳が立たないということも分かっている。親戚義絶も致し方なし。それでも息子を勘当出来ない」と大泣きに。
一部始終を見ていた放蕩息子。親の思いが心に沁みたか、これを機に改心し、別人のような孝行息子になったのでした。
・・・と、超・ざっくり勝手にまとめるとこんな感じ(のはず)で、「親の愛情がいかに子供を変えるのか、その力はすごい」ということになろうかと思うのですが、私はこれは「その一部始終を覗き見していた」という部分がキモな気がしています。
面と向かって「あなたのことを心から心配しているのよ。一緒にのたれ死んでもいいわ」と切々と訴えても、これほど息子の心に響いただろうか・・・そもそも「こっちは産んでくれなんて頼んだ覚えはない」と悪態をついていた息子です。
本人がいない所での言葉の力。それは掛け値のない本心だから響くのかな、と。
人を褒める時はその人のいない所で
人を批判する時はその人の前で
と、聞いたことがあります。
テクニックとしてではなく、真摯な思いから出る言葉、だからなんでしょうね。